栃木市の街外れ、田畑の向こうにネオンがぼんやりと光っていた。


それが「麗都樋ノ口店」だった。夜になると駐車場に演歌混じりの店内BGMが流れ、車の排気音と入り交じる。台の光はいつも眩しく、あの独特のタバコのにおいと、乾いた玉の音。今となってはすべて懐かしい。


2009年から2010年ごろ、掲示板では「遠隔」「サクラ」「出ねえ」といった書き込みが絶えなかった。


それでも人は集まった。理由は単純で、あそこには“場”があったからだ。勝ち負けより、日常の延長線にある騒がしさが欲しかった。負けた客が缶コーヒーを片手にぼやく声、顔なじみの店員との軽い会話、そんな小さな反復こそが日々を支えていた。


やがて年月が過ぎ、2023年5月6日、「麗都樋ノ口店」は静かに幕を閉じた。


運営する城東商事グループが同時に2店舗を閉めるというニュースに、長年通った者たちは短くため息をついた。「ああ、あの店も終わったか」と。あの頃、愚痴を言いながらも通っていた常連たちの顔が、ふと浮かぶ。


出ない店だった。荒れた書き込みばかりだった。


けれど、不思議なことに思い出すと温かい。
パチンコ玉の弾く音、寒い夜に光る看板、そしてもう一度だけ見たかった赤い「麗都」の文字。


あれはただのホールじゃない。一つの時代の残響だったのかもしれない。



樋ノ口の話になると、どうしても2010年の掲示板口調が頭の中で再生される。


「遠隔だ」「ガセだ」「マイクうるせぇ」「サクラだけ出る」——あの頃のスレは、怒りと自虐と、ちょっとした諦めが混ざった熱で満ちていた。順押し中段ベルが外れた、ジャグのリーチ目で光らなかった、のび太メガネのハイエナが首をカクカクさせてる、なんて細部まで、今もやけに鮮明だ。負けた日ほど、人は細部をよく覚える。


それでも、夜になるとつい車を走らせた。島を一周して空き台のデータを眺めて、玉の音に気持ちをならし、結局は「今日はやめとくか」と言いながらサンドに札を入れる。あの“負ける前提の儀式”まで含めて、生活の一部だったのだと思う。


負けた帰り、交差点を抜けて「台湾料理 福佑楼 栃木店」に寄った。山椒強めの麻婆豆腐、夜更けのラーメン、取り皿に分け合う餃子。勝っていようが負けていようが、湯気は等しく立ちのぼる。その隣の席で、知らない誰かが「樋ノ口さぁ、今日はガロが…」と同じ愚痴をこぼしている。うなずき合うだけで仲間だった。


昼間に偵察するときは「イグレック食堂」でカレーやプレートを早めにかき込んで、開店の音に間に合うように会計を急いだ。土手をまわる遠回りを選んだのは、気持ちを切り替えるためだ。蔵の街まで足を伸ばせば、遊覧船の船頭さんがゆっくりと川面を進める。こちらは時速数キロの世界。あのゆっくりさに触れると、朝いちの抽選番号で呼吸が浅くなる自分が、少しおかしく見えた。


樋ノ口のホールに戻れば、また現実だ。イベント札の薄さ、夕方だけ点く箱、無表情なメダル計数。スレで揉めていた「店が悪い/いや自己責任」論争だって、今振り返ればどちらも正しかった。店は商売として厳しく、こちらは娯楽としては過酷すぎた。だから文句も出るし、また並ぶ。あの反復が、確かに日常だった。


そして2023年5月6日。城東商事が2店舗を同時に閉じ、麗都樋ノ口店も看板を降ろした。
閉店告知のポスターは素っ気なく、最終日の店内放送もいつもと同じように平板だったけれど、出口の自動ドアが開くたびに夜気が少し冷たく感じた。駐車場で最後の一服をしながら、誰かがぽつりと「結局さ、勝ち負けじゃないんだよな」と言った。ほんとうに、そうだったのかもしれない。


あれから時間が経って、街は少し静かになった。福佑楼のテーブルは変わらず赤く、イグレックの皿は相変わらず丸く、巴波川の水も相変わらずゆっくり流れている。変わらないものの中に、もう一つだけ戻らない光がある。それが「麗都樋ノ口店」の島の明滅だ。


出ない店だったよ。スレは荒れてた。店内マイクはたしかにうるさかった。


それでも、台間をすり抜けるときの肩の距離、流し台でメダルが跳ねる金属音、閉店間際の静けさ——ぜんぶ思い出すと、少しだけあたたかい。負けた夜の麻婆豆腐の辛さまで、ちゃんと覚えている。あの店は、勝率では測れない場所の記憶になって、今も栃木の夜のどこかに、うっすら残っている気がする。



麗都樋ノ口店
栃木県栃木市樋ノ口町470-1

参照期間:2009年9月~2010年5月(掲示板書き込み)、および2023年5月(閉店報道時)。

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