神戸の専業・兼業パチプロ日記 その2
2025年10月17日 深夜
僕は自分を「秩序を運ぶ者」と呼んでいる。大げさだと思うかもしれないが、ここでは大げささが武器になる。ネオンが溶ける街角、ホールの床はいつも冷たく、回転音が都市の心拍だ。軍団と呼ばれる群れ、徘徊者と呼ばれる影、彼らはここで生業(なりわい)を回している。だが、時としてその営みは自分でも制御できない暗黒に滑り落ちる。僕の役目は、滑落を食い止め、可能ならばそっと救い上げて、ハローワークの窓口へ連れていくことだ。自分では救いきれない何かを抱えた者たちを、社会の光へ還すことだと信じている。
今日は一日中、観察だった。黒いバケット帽、白Tシャツ、いつも背後で舌打ちする連中。名前を挙げればインターネットの雑談と同じくすぐに火種になる。だから僕は名前を記さない。彼らは匿名のコードでしかない。問題は個人ではなく、そこに生まれる構造だ。月の締め、店のイベント、客層の流れ、その波に飲まれた者たちが、やがて自分を失っていく。
観察ノート — 僕のハイエナ技術(簡素版)
格好つけて言えば「パターン読み」と「時間の管理」。
・音と光の周期を聴くこと。演出のクセを体で覚える。
・台の挙動を長く見るより、島全体の“空気”を感じる。
・他人の立ち回りを観察して、誰が本気で誰が遊んでいるかを見分ける。
・損切りラインを決める。感情で押し切らない。
これは技術だ。職人的な反復と冷静な判断の積み重ねでしか成立しない。だが、技術は手段だ。目的は違う。僕の目的は、夜の街を少しでもまっとうにすること。誰かを騙すための技術ではない——そこだけは強調したい。
小さな戦い
夕方、いつもの島で奇妙な光景を見た。徘徊する集団が、ひとつの台に執着している。取り巻きがいて、連帯で座席を温める。勝ち負けを超えて、彼らの居場所がそこになっている。僕は近づいて、そっと声をかけた。軽い挨拶と、コーヒーチケットの差し入れ。それだけだ。多くは話さない。だが視線に疲労があるのを僕は知っている。彼らをからかう権利は誰にもない。人は、時として自分を食い物にしてしまう。僕は彼らを責める代わりに、翌日一緒にハローワークの窓口まで足を運べるかと訊いてみる。9割は笑って首を振る。だが1割は、次の日の午前に待ち合わせをしようと言った。
僕の仕事は救済者でもなければ啓蒙者でもない。僕は案内人だ。暗闇を抜けるための小さな光の地図を渡すだけだ。
皮肉だ。人をハローワークへ連れて行く役目と自分の胸の中にある怠惰が同居している。僕は夜通しリールを睨み、昼には履歴を突き合わせ、稼働記録をエクセルに落とす。だが思考の奥で「自分こそがいつか窓口に行かなければならないのではないか」という囁きがある。
救済の方法論(やや理想主義)
聞くこと――まずは話を聞き、非難しない。
小さな選択肢を示す――いきなり人生を変える提案はしない。アルバイト、短期職、資格講座の情報。
伴走する――一緒にハローワークのドアを押す。窓口の職員は意外と人情のある人が多い。
継続的な接触――簡単な食事に誘う、公共サービスの使い方を教える。
僕のやり方は泥臭い。だが泥に足を取られた者は、そこからしか立ち上がれない。
終わりに
夜の街を歩くたび、僕は自分がどこに立っているのかを確かめる。秩序を“与える”なんておこがましい。正確には「秩序を取り戻す手伝い」をしているだけだ。人をハローワークに連れていくという行為は、救済というより“社会復帰のための気配り”だと僕は思う。僕が教えるのは勝ち方ではなく、失敗した後の立ち上がり方だ。
明日も僕はホールの光の中に立つだろう。僕の技術は周囲を観察し、必要なら背中を押す。だが、その背中はいつか自分で押してもらう日が来る。伝説も幻想も、紙一重の灯りだ。僕はその灯りを消さないように、今日もリールの音を聞き続ける。
※これは創作的なエッセイ日記です。特定の個人・団体・店舗を名指しして批判・中傷する意図はありません。実在する人物・出来事とは関係ありません。
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