アスカ太田店についての覚え書き (爆サイの掲示板)
アスカ太田店についての覚え書き
参照期間:2009年10月14日〜2010年7月22日
ぼくは太田市の国道407号線沿いにある、その店のことを地図で確かめてから、もう一度、ゆっくりスレッドを読み直した。住所は下浜田町370-4。営業時間は朝の十時から夜の十時四十五分まで。台数の配分や、アクセスの説明が、うすく冷えた紙コップの水みたいに淡々と並んでいる。実際の店内はもっと湿っていて、音がうるさく、たぶん独特の匂いがしたはずだ。
スレは最初から、ひとりの低い背の女性の話題で始まる。彼女は「慶次」を打っていて、よく出していて、途中でレシートに換えるという。事実かどうかはわからない。匿名の文は、たいていの場合、海の上に浮いた木片のように、方向がわからないままどこかへ流れていく。誰かは「調べるべきだ」と言い、別の誰かは「完全に店の人間と組んでる」と決めつける。ぼくはそのやり取りを読みながら、海流の速度を計るみたいに、感情の流れを追いかける。
店の話に移ると、語り口は急に実務的になる。換金率、釘、イベント、客付き。月日の経過とともに、書き込みの色は濃い赤から、やがて薄い灰色に変わっていく。「ガセイベ」「出さない」「客が飛んだ」。こうした言葉が規則的に現れては消える。雨の予報と同じで、当たる時もあるし、はずれる時もある。はずれたとき、人は少し怒る。あたりまえだ。
ぼくが気になったのは、島の出方が「誰かが来た途端に変わる」とか、「事務所で何かしてるね」といった、不確かな確信の数々だ。そういう種類の確信は、夜の街を一人で歩くときの足音みたいなもので、静かに、しかし確実に心を早歩きさせる。遠隔、サクラ、裏物。言葉は古びても、疑いの構図は古びない。ここでは何も証明されないし、誰も証明を求めていない。ただ、疑いは疑いとして積もっていく。
合間に、ささやかな人間の気配が混ざる。ゾロ目デーの期待、沖海が出ていた日の安堵、店員に可愛い子がいるかどうかという、どうでもいいようで、実はどうでもよくない話題。車の話、匂いの話、雨の日の「土方が狙い撃ち」だという皮肉。どれも少し乱暴で、少し幼い。けれど、ホールの喧騒の端切れとしては、妙に現実的だ。
書き込みの季節が移ろうにつれて、懐古も出てくる。「シオサイ」「キングキャッスル」「ミリオンゴッドと沖スロB物時代」。ぼくらはしばしば、自分のうまくいった時期を「全盛期」と呼び、そこに柔らかい光を落とす。光は優しいが、現実の島は優しくない。釘は渋いと言われ、設定は低いと噂され、チラシは「大回収の合図」と揶揄される。
それでも、誰かは明日も行くのだろう。「勝ったらしばらく行かない」と書いた人が、たぶんまた明日も島の角を曲がるように。ぼくはそれを責める気になれない。人にはそれぞれ、同じ場所へ戻っていく理由がある。近くに川が流れているからかもしれないし、単に、帰り道に点いているネオンの色が好きだからかもしれない。
このスレを通して、ぼくは一つだけ確かなことを思い出した。ぼくらがホールに求めるのは勝ち負けだけじゃない。手持ちの時間が、目の前の台の作る物語と、どうにか釣り合うことだ。レバーを叩く指、揺れるドット、積み上がらない箱。たまに積み上がる箱。うまく釣り合えば、ぼくたちはその日の夕飯を少しだけ旨く感じる。釣り合わなければ、コップの水が気の抜けたサイダーみたいな味になる。
アスカ太田店のスレは、そういう味の記録だ。辛いとか、薄いとか、臭いとか、そんな感想が何百も並んでいる。読む人間には、どれもすこし似て見える。けれど、書いた本人にとってはそれぞれの一日だ。ぼくはそのことを忘れないようにしたいと思う。
最後に短く言えば、ここで語られているのは、店の良し悪し以上に、**“通うこと”**の苦さと習慣の話だ。ぼくらは通い、判断し、また通う。時々やめるふりをして、やめずに、続ける。そういう種類の営みが、世界にはたくさんある。ぼくはそれを、悪いことだとは思わない。ただ、時々立ち止まって、レシートの数字じゃなくて、自分の足取りの方を数えてみるのも、悪くない。そういうことだ。
「ガセイベ多数用意しております。」(#59[店長])
やれやれ。ほんとうに店長ならブラックユーモアが過ぎるし、成りすましなら無料の炎上広告だ。どちらにせよ、支払いは客の期待でまかなわれるらしい。
参照スレッド
https://bakusai.com/thr_res/acode=15/ctgid=126/bid=152/tid=683268/
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